米ハーバード大とマサチューセッツ工科大が共同運営するブロード研究所のCRISPR-Cas9関連特許を認めなかった特許庁の2件の拒絶審決について、知的財産高等裁判所は、令和2年2月25日、うち1件について審決を取り消し、もう1件については審決を維持した(知財高裁判決令和2年2月25日、平成31年(行ケ)10010号、平成31年(行ケ)10011号)。
背景
概略、CRISPR-Cas9システムは、Cas9(切断酵素)と該Cas9を標的部位に誘導するガイドRNA(crRNAおよびtracrRNA)とを含んでおり、ガイドRNAが標的部位を見つけ、Cas9(切断酵素)がDNA二本鎖を切断し、標的部位のゲノム配列の任意の場所を削除、置換、挿入することができる、という新たな遺伝子改変技術(第3世代ゲノム編集技術)である。
本分野においては、ブロード研究所、カリフォルニア大学バークレー校、シグマアルドリッチ、ビリニュス大学、ウィーン大学、トゥールジェン等が近接した時期に関連する特許出願を行っており、とくにブロード研究所とカリフォルニア大学バークレー校とがワールドワイドに特許性についての係争を繰り広げている。
第1事件概要(平成31年(行ケ)10010号:原告敗訴事案)
本件は発明の名称を「配列操作のための系,方法および最適化ガイド組成物のエンジニアリング」とする、ブロード研究所・マサチューセッツ工科大学・ハーバード大学(「原告ら」)の特許出願(特願2016-117740、優先日は平成24年12月12日)について拒絶査定がされ、原告らがした審判請求についても拒絶審決がされた(不服2017-13795)ことから、原告らが当該審決の取消を求めた審決取消訴訟である。
なお、拒絶査定および拒絶審決において先願とされた引用文献1(Chen)は上記したシグマアルドリッチによる国際出願(PCT/US2013/073307号)であり、進歩性判断の主引用文献とされた引用文献2(Jinek)は、上記したカリフォルニア大学バークレー校のMartin Jinekらによるサイエンス誌掲載の論文である。
本件において原告らが主張した取消事由は以下の通りである。
<取消事由1> 引用発明1(Chen、優先日は平成24年12月6日、公開日は平成26年6月12日)に基づく特許法第29条の2(拡大先願)の判断の誤り
<取消事由2> 引用発明2(Jinek、オンライン公開日は平成24年6月28日)に基づく特許法第29条第2項(進歩性)の判断の誤り
第1事件判決概要
取消事由1における争点の1つは、先願明細書の記載が特許法29条の2における後願排除効を有しているかどうか、であり、具体的には「ガイドRNAが,II型Cas9タンパク質を真核細胞中の染色体配列中の標的部位へ誘導し,そこで該II型Cas9タンパク質が,該標的部位にて染色体DNA二本鎖の切断を誘導し,該二本鎖の切断が,染色体配列が修飾されるようにDNA修復過程により修復される」との本願発明の構成要件Fに係る構成が、先願明細書、すなわち、引用文献1(Chen)に示されているか否かであった。
原告らは先願明細書に記載された実施例5(PCR試験)の結果からすれば、当業者は引用文献1(Chen)においては標的部位への組み込みがなかったと結論づけるはずであり、後願排除効を有しない旨を主張した。
本判決は、「特に先願明細書等に記載がなくても,先願発明を理解するに当たって,当業者の有する技術常識を参酌して先願の発明を認定することができる一方,抽象的であり,あるいは当業者の有する技術常識を参酌してもなお技術内容の開示が不十分であるような発明は,ここ(注:特許法第29条の2)でいう『発明』には該当せず,同条の定める後願を排除する効果を有しない」と述べつつ、特許法第29条の2に定める後願を排除する効果を持つためには、「技術内容の開示の程度は,当業者が,先願発明がそこに示されていること及びそれが実施可能であることを理解し得る程度に記載されていれば足りるというべきである」との基準を示した上で、引用例1には、当業者が、先願発明がそこに示されていること及びそれが実施可能であることを理解し得る程度の記載があると判断し、当該主張を認めなかった。
しかしながら、上記「技術内容の開示の程度は,当業者が,先願発明がそこに示されていること及びそれが実施可能であることを理解し得る程度に記載されていれば足りるというべきである」との基準は、化学物質特許や医薬用途特許などとの均衡上、疑問である。
第2事件概要(平成31年(行ケ)10010号:原告勝訴事案)
本件は発明の名称を「遺伝子産物の発現を変更するためのCRISPR-Cas系および方法」とするブロード研究所およびマサチューセッツ工科大学(「原告ら」)の特許出願(特願2016-128599)について拒絶査定がされ、原告らがした審判請求についても拒絶審決がされた(不服2017-13796)ことから、原告らが当該審決の取消を求めた審決取消訴訟である。
本件において原告らが主張した取消事由は以下の通りである。
<取消事由1> 引用発明1(Chen)に基づく特許法第29条の2(拡大先願)の判断の誤り
<取消事由2> 引用発明2(Jinek)に基づく特許法第29条第2項(進歩性)の判断の誤り
第2事件判決概要
審決は、引用発明1(Chen)との関係で、本願発明でクレームされている「tracr配列が、30以上のヌクレオチドの長さを有」するとの構成は「一応の相違点」にすぎないとしていたが、本判決は、tracr配列(第二領域の片方のステムと第三領域を合わせたもの)の長さそれ自体を規定するという技術思想が表れていない以上、「tracr配列が、30以上のヌクレオチドの長さを有」するものという構成を採用したことが「記載されているといえないし,技術常識を参酌することにより記載されているに等しいともいえない」として、これを特許法第29条の2に係る実質的な相違点であると認定し、取消事由1に係る原告の主張を認めた。
また、当該構成を採用したことによって,真核細胞におけるゲノム改変効率が増加することを特徴とする本願発明は、vitroレベルの引用発明2(Jinek)に基づいて当業者が容易に想到し得たものではないと判断した。
他方、本判決では第1事件で争点となった構成要件Fに対応する本願発明の構成要件Fに係る構成、すなわち、「前記1つ以上のガイドRNAが,真核細胞中の前記ポリヌクレオチド遺伝子座を標的とし,前記Cas9タンパク質が,前記ポリヌクレオチド遺伝子座を開裂し,それによって,前記ポリヌクレオチド遺伝子座の配列が,改変され」との構成が引用文献1(Chen)に示されているかについては判断されず、そのため特許法第29条の2に定める後願を排除する効果を持つためには「技術内容の開示の程度は,当業者が,先願発明がそこに示されていること及びそれが実施可能であることを理解し得る程度に記載されていれば足りるというべきである」との基準が示されることもなかった。
これら2件の判決は、CRISPR-Cas9関連特許に関する我が国で初めての判決であるため紹介した次第である。
第1事件判決の全文はこちら(外部ウェブサイト)
第2事件判決の全文はこちら(外部ウェブサイト)
文責: 鈴木 佑一郎 (弁護士・弁理士)